「ダンー! どこに居るのー!」
「返事しろ、ダン!」
それから数時間が過ぎ。探し始めたときは真上にあった太陽が、すでにオレンジへと色を変え、山の間から顔を覗かせていた。
「……これ以上は無理か」
額に浮かんだ汗を腕で拭って独り言のようにつぶやく亮。その言葉に思わず目を見開いた。
「い、嫌! まだ探す! まだ大丈夫だから!」
つい声を荒げ、周囲の人の視線が刺さるのを感じた。そんな私の様子に困ったような表情をして宥めようとする。
「これ以上、暗くなったら探すのは難しいだろ?」
「そ、それでも! それでも私は……ダンを……!」
なおもあきらめきれない私を困ったように見つめる亮。しばらく無言が続き、二人の間に気まずい空気が流れた。
どのぐらい経ったのだろう。もしかしたら数秒しか経っていないかもしれないし、数十分も流れてしまったのかもしれない。それぐらいに時間の感覚を忘れるほど、気まずい空気が流れていた。痺れをきらしたように亮が何かを言おうと口を開く。
「ワンッ」
……ワン? 亮がこんな時に鳴き真似でもしたのかと一瞬驚いたが、鳴き声を頭の中でリプレイする。
『ワンッ』
この鳴き声は。もしかして。まさか。一ヶ月間共に過ごした、亮の家の小さな同居人の声を忘れるはずがない。亮も同じ結論に至ったらしく、私と顔を見合せた。そして、二人して声がした場所……、曲がり角のすぐ傍にある公園へと駆け出した。
曲がり角を曲がり、そこで足を止める。公園の中を目を皿のようにして見渡すと、白いほわほわとした生き物が走っているのが見えた。あれは紛れも無い。……ダンの姿だ。
「ダ……!」
顔が綻ぶのを感じ、思わずダンの名前を呼び駆け寄ろうとした私の腕を、亮がぐっと掴んだ。
「……何するの? ダンが、ダンがすぐそこに居るんだよ!」
信じられない、と言った表情で亮の顔を見ると、彼は静かに顔を横に振った。
「亮……?」
そんな表情を見て、今まで冷静さを失っていた頭が一気に落ち着いた。
「あれ、見てみ」
亮が指で指し示す。指の先を視線で追って、亮へと向けていた顔をダンのほうへと向けた。そこには。嬉しそうに尻尾をふるダンの姿と。ダンと一緒に笑いながら、リードを引っ張っている小さな女の子が走っていた。
「……帰るか」
「…………うん」
私の手をとってマンションへと歩く亮。その後ろを静かに歩いていく。
これは後から聞いた話だけれど。ダンは、元々はあの女の子の家で生まれたという。そして女の子と川の近く遊んでいるときに、見失ってしまったらしい。
ダンボールは、その女の子のおもちゃ箱として使われていたらしく。誤っておもちゃ箱の中に入ろうとして一緒に転倒、そのまま流されていたらしい。運よく、ダンボールの中に入ったまま流されていたのが不幸中の幸いで。そんなダンを捨てられたと勘違いした私が拾った、というわけだ。
しかし、当然そのときの私はそんなこと知るはずもなかった。けれど幸せそうなダンの姿を見て、私達の役目は終わったんだということだけはどことなく伝わってきて。
「…………」
「…………」
手を繋ぎ、無言のまま二人で夕焼け空の下を歩く。私達の長い影がゆらゆらと動いていた。温かいものが頬を伝って影の上へと零れ落ちる。今までダンと過ごしてきた一ヶ月が、走馬灯のように頭を駆け巡った。
初めて、ダンを抱き上げたこと。
初めて、ダンにドッグフードをあげたこと。
初めて、高校になってから泥ではしゃいだこと。
初めて、ねこじゃらしでダンと遊んだこと。
初めて、道路まで亮と裸足のまま逃げまわったこと。
初めて、亮の優しさが見れたこと。
初めて、亮の困ったように笑う顔が見れたこと。
初めて、亮と心から笑いあえたこと。
ダンからもらった色々な『はじめて』が頭の中に過ぎていく。涙はまだ、一向に止まる気配がない。
そこまで思い出して、ふと気付く。なんだか、亮と過ごしたことばかりを思い出している気がする。
ドクン、と心臓が一際大きく鳴った。急に繋いだ手から伝わる、包み込まれるような温もりを意識してしまい、体温が二、三度上昇気がして。
「……そっか」
ダンは私にもう一つ、『初めて』をくれたんだ。いつの間にかとめどなく流れ続けていた涙が止まり、動かしていた足をとめる。胸に手を当てると、心臓がいつもよりもせわしなく動いていた。私の顔が赤くなっているのは、きっと夕焼け空のせいだけでもなく、涙のせいだけでもなくて。
「……? どうした?」
不審に思った亮が首を傾げつつ、私の手に引かれるようにして同じように足を止める。
「ねえ、亮」
私はこれから彼にもうひとつの『初めて』を伝える。それは大好きなレモンよりも甘酸っぱい、私にとっての。
「……好きだよ」
初めての恋心