それは十時間半前。

 目覚ましを止め、パンを口に放り、髪を軽く整え、制服に着替えて、さあ学校へ行こうというとき。テレビから流れてきた単語がすっと耳に入り込み、鞄を持とうとした手をつい止めてしまった。

 エイプリルフール。
 その日はまあ、嘘をついても何でも許される、ある意味お祭りみたいな日のことで。そういえば何だか家族がそわそわとしていた気がする。何か面白い嘘でも考えていたんだろうか。それとも何だろう、嘘をつかれるのを警戒していたのか、その区別はつかないのだけれど。

 それよりも、だ。こんな日は私も嘘を付かないと……何というか、損をした気分になる。折角だから盛大な嘘でもついてみようか、そう思ったけれど即座にそれは自分自身で却下する。折角だからバレない嘘をつきたいし、何より準備もしていない。更にはそんなことを考えられる脳みそも残念ながら持ち合わせてなんかいない。

 じゃあバレない嘘って何、と言ったらそれは現実味のある嘘になる。じゃあ現実味のある嘘って何、と言ったらそれは……それは?
 うーん、と考え込むこと数秒、お母さんに早く行きなさいと叱咤され慌てて行動を再開する。適当に返事をしながら「そういえば、」とお隣さんの存在を思い出した。

 今日、起こしに行ったっけ。
 やばいやばいこれはやばい。どのぐらいやばいかって言うと生卵をレンジでチンするぐらいにやばい。比較的義務感が強いと自分で思っている私にとっては大問題なわけで。

 バタバタと騒がしく階段を駆け上がり慌てて自室の窓を開けた。から今度はお父さんの叱るような声が聞こえてきたけれどごめん、正直今はそれどころじゃない。

「おおおおい! 起きてる!? 寝てる!?」

 向かい側の窓に向かって大声で怒鳴ると、即座に向かい側の窓が開け放たれた。

「朝からうるせぇよ! 起きてるよ当たり前だろ!」

 いつもの見知った顔が窓から飛び出さん限りに叫んできて、少し安心する。私のせいで遅刻するはめになったらかなり後味悪いからね。すでに準備は万端だ、と主張しているかのように髪はきちんとセットされていて、程よく毛先がぴょこぴょこと跳ねていた。

「ああ、良かった。起きれたんだね珍しい」
「俺だって自分で起きることぐらい出来るよ。あー耳いてー」

 耳を塞ぐように手を当て撫でるように動かす彼の首にはヘッドフォンがかかっている。前に「音楽とか聞くんだ?」と問いかけたら「これはオシャレなの」と返ってきたときのことをふと思い出した。

「何、ピアスごと耳でも千切れたの?」
「声がでかかったの! 地味に残酷なこと言うなよ」
「駄目だよ朝から大きい声出しちゃ」
「俺じゃなくてお前が、……ったく」

 まあ良い、そろそろ学校行くぞと窓を閉める彼に返事をしてそれに続く。と、ずっと手に持っていた携帯のディスプレイを何となしに覗いてみた。

 右下に表示される雨のマーク。言わずもがな、これは今日の簡単な天気予報だ。今日は雨なんだ、そういえば確かに今にも降り出しそうな天気。窓越しに見上げればどんよりと重く、雲ごと地上に落ちてきてしまいそうだ。

 ……そうだ。
 バレずに、尚且つ現実味のある嘘がパッと頭の中に思い浮かんだ。とてつもなく些細なことなのだけれど。それでも働くちょっとしたイタズラ心。

 綺麗な水色の水玉模様でお気に入りの折りたたみ傘をそっと鞄の隅にしまい込み、家の前で苛々と待っているだろうお隣さんの元へと駆け寄る。そうして言うんだ。


「ねえ、今日は午後から晴れるらしいよ!」