少女による愛の持論


 私は恋という感情を知らなかった。

 元々、感情と言うのはとても曖昧なもので。「正確に言葉で説明しろ」と問われても咄嗟に対応出来ない人の方が多いのではないかと思う。なぜならそれは形の無いもので、自分にでさえ良く分からないものも紛れ込んでいるからだ。

 それに、自分の思っているものと同じ感情を他の人も持っているとは限らないかもしれない。例えお互いに共感し合えるものがあったとしても、もしかしたらそれは根本的な意味が違っているかもしれないし……まあ合っているのかもしれない。いくら頭を捻ろうが唸ろうが、それを確かめる術は無いので何とも言えないのだけれど。

 その数多く、無数の感情の中でも『恋慕』というものが一番理解しがたいものだった。
 限界まで努力して可愛くなろうと躍起になったり、ありったけの勇気を振り絞って話しかけようとしたり。言語化することさえ出来ないはずの不透明な感情のためにどうしてあそこまで行動を起こせるのか。ましてや、愛する人のために命を投げ出すだとか。自分を犠牲にする人達の気がしれない。

 私は恋という感情を知らなかった。知らなかったのだ。


+ + +


 そう、過去形。これまでの私はひたすら『感情』について悩み、悩んで、悩み抜いて、理解しようとして。そして考えることを放棄した。
 面倒になったのだ。悩むこともそうだけれど、そんなことを考えている自分が馬鹿らしく思えてきて止めた。別にこのままでも良いか。そんなことが頭の端にちらりと思い浮かびとりあえずは一旦、放置。
 そんな私には、目の前の男子生徒が言う「好き」なんて感情が分かるわけが無いはずで。

 ……もう一度言う。あくまでも過去形だった。過去形だということはつまり、当たり前だけど現在とは異なると言う意味で。
 確証はないのだけど、おそらく一般的には恋と呼ばれる感情がすでに私の中に芽生えているらしい。歯切れが悪い言い方をしているのはまあ……この感情が恋であるという確証をイマイチ持ち合わせてはいないから。ただ、辞書や書物で見かけた恋愛という名の感情と照らし合わせてみると、ぴたりと症状が一致してしまうだけのこと。

 ……まあ、それはそれとして。とりあえずはこの状況を何とか打開しなければならない。
 先ほどから頭を下げて手を差し出している目の前の制服の少年。彼に「あの」と声をかけると、途端に飛び跳ねるように頭を上げられた。

「私、好きな人がいるんです」
「……え」
「勘違いをされないように予め宣言しておきますけど。あなたに恋をしただとかそのような意味合いは全く含めていないので」

 ご了承願います。そう一息に言うと、名前も知らない彼は戸惑いから落胆の表情へとみるみる内に変化してしまった。

「そ、そうですか……」
「ちなみに。私の想い人というのはとても素敵な方で常に笑みを浮かべており端正な顔立ちをしています」

「え? あ、はぁ」

 急に何を言い出すんだ、と目を丸くされているのにも気付かずに、一度動き出した口は止まらない。脳が彼に該当する文章を次から次へと私に提示し、気付けば声へと変換されて溢れ出す。

「少しおちゃめな面もありますが路上で一人座り込んで居た孤独な私を拾って家に住まわせてくださったのも彼ですどこか幻想的な雰囲気と巧みな話術を持ち合わせている彼は初めは年上なのかと錯覚していましたが本当は同い年だという事実を知ったときは驚きましたがそれと同時に親近感も湧き」
「あ、あの……?」
「ああそうそう彼は高校には通っていないんですとても知識に貪欲な方でもう高校や大学分の知識は頭に入っているのです凄い方ですよね常に興味のある事柄を追求し毎日大変楽しく過ごしていらしていて私も喜ばしい限りです私としては登下校を共にし毎日彼と学校生活を満喫したいなだなんて出過ぎたことを思案していたりするのですがやはり不可能なことなのでしょうかまあ彼にはまだそのことを提案したことは無いのですがもし実現したとしたら私は冗談等無しに死んでしまいそうですそれに」
「……っ!?」


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「……で……あれ?」

 ふと気付くと目の前には誰も居なかった。ただただ体育館の裏特有の寂しげな雰囲気があるだけで、人どころか物音すらも何も聞こえない。先ほどまで私に愛を語ってくれた生徒はもうどこにも見当たらなかった。少し落胆しつつも、とりあえず回避出来たことに胸を撫で下ろす。
 ……私にはもう心に決めた人が居るんだから。脳内でふと姿を思い浮かべてうっとりと頬に手を添える。

「無道様……」

 彼の名を無意識に口ずさめば、ほんわりと心の奥が暖かくなったような気がして。まるで私を中心に周りへ春の陽気がじわじわと移ってしまったかのように、心地良い温かさの風が桜を一欠片運び、撫でるように頬をかすめてふわりと落ちていった。
 ふふふ、と自らの口から自然に溢れる笑い声に合わせて桜の絨毯に一つ足跡を付ける。一つ、また一つ、もう一つ。着実に校舎へと戻る足跡を残していく。
 私の頭の中にはもう、告白をしてくれていた彼の姿は跡形も無く消えていた。