日常へのスパイス


 あんなに咲き乱れていた桜が気付けば跡形も無く姿を消し、その代わりだとでも言うように緑色が見え隠れし始めたそんな時期。
 夏とも春とも言い難い微妙な季節が訪れると同時に、そのイベントはやってきた。

「……体育祭、ですか?」
「らしいね」

 黒板にでかでかと書かれている文字をそのまま口に出せば、隣から返答が返ってくる。比較的後ろに位置する私達の席は、少し会話をしたってあまり気付かれはしないようなポジションで。まあ、この騒がしい上に熱気が凄まじいこの教室の中。よっぽどのことが無い限り誰かに聞かれたりすることすらまず無いとは思うのだけれど。

「……一つは出場しないとね」
「当日に雨でも降りませんかね」
「もう少し前向きに考えれば?」

 競技名やその参加者名が次々と黒板を支配していく様を、机に項垂れながらボーッと眺める。
 運動は別段嫌いではない。けれど自ら進んで参加する程青春に燃えようとも思ってはいない。要するに、まあ、ただただ面倒なだけなのだ。

「まあ、俺も出る気は無いけど」
「もう少しやる気を出したらどうですか? 高校二年生になって初めての行事ですよ」
「その台詞そのまま返したい」

 黒板から彼に視線を向ければ、私と同じように机に突っ伏していた。することも無いのか暇そうに足をぶらぶらと動かしている。

「どれに出る?」
「疲れないものが良いです」
「一体体育祭に何を求めてるの?」

 早く終わらないものかと時計を見るも、残念なことに残り時間は二十分以上も残っている。百メートル走、騎馬戦、棒倒し……ざっと斜め読みしてみたけれど、どうにもやる気がおきる気配が無い。

「……もう何でも良いです」

 どうでも良いとも言う。じゃあ適当に決めとくよ、という彼の言葉を合図にじわじわと睡魔の波が襲いかかってきた。あれだけ騒がしかった喧騒が何故だか心地良い子守唄にゆっくりと変化していく。
 眠気に勝るものは無いな。あまり機能しない頭でそう考えると、重くなった瞼に抗うこともせずにそっと目を閉じた。


+ + +


「……で、」

 現状説明、現状説明。
 時計を見るに、どうやら眠る前に行われていた種目決めはつい先ほど終わってしまった模様。今は帰りのホームルームが始まるまでの休み時間だと思われる。
 無事に一人一人が何かしらの種目に付けたのか、誰もが安心したような表情になっていた。
 そして一番気になっている私が出るはずの種目は、日直が真面目に仕事をこなしてくれているのかとっくに黒板から姿を消していた。
 ……現状把握、現状把握。

「圭人、どうでしたか?」
「今日も平凡で平和な一日だった」
「いえ、そういうことを聞きたいわけでは無いんですけど」
「チョコ食べる?」
「ください」

 急に一口サイズの包み紙を手渡され、しばらく眺めてから中身を取り出し口に含む。舌に乗せたと同時にふわりと溶け、甘い香りと共に少しだけほろ苦く口に広がった。美味しい。

「……いや、いやいやいや。こんなのでモグ騙されませムグんよモグ私は」
「口の中の物片付けてから喋って」
「…………。失礼しました」

 口の端を軽く拭いながら彼の方へと椅子ごと向き直る。次から次へとチョコを口の中へと放り込む姿を見て、ふとどうして太らないんだろうと単純に疑問に思った。
 どこからどう見ても無駄な肉が無いスラリとした体型。女子なら誰だって憧れるようなこの体はどうやって維持しているのだろう。……実は影で鍛えてたりするのかな。サンドバッグ相手に四苦八苦してる情景を頭に思い浮かべようとした。……しかし、あまりにも現実離れしているその姿は全くもって想像が付かず。
 有り得ない。有り得ないね。血と汗と涙とは最も対極に位置しているであろう彼の性格を知っているのは他の誰でもない、私だ。その私が断言出来るぐらいだから間違いない。

「……何見てるの? 先生来たよ」
「え」

 おら、ホームルーム始めんぞーといつものやる気の無い声が教室の扉近くから聞こえてくる。その声を合図に慌てて横に向けていた席を元の位置に戻した。
 見飽きた教師の顔を横目に「すみませんでした」と圭人に小声で謝ると、彼もまた何事も無かったかのように前を向いていていた。無視ですか無視なんですね。
 何だか唐突に虚しくなり、大人しく先生の話でも聞こうかと前方に視線を移す。……あれ、何か忘れてる気がする。何だったっけ。はてと疑問符を頭に浮かべるも、思い出せないものはどうやったって思い出せないわけで。
 まあ、忘れるってことはさして重要なことでは無かったのかな。気にしないが吉。諦めが早いのが私の長所であり欠点だ、と自分自身に良く分からない説得をしつつ、話に耳を傾ける。

「……見ないでとは言ってない」
「……ん、何か言いました?」

 先生の声と彼の台詞が被り、良く聞き取れなかった。先生の方に意識を持って行かれていたから尚更。彼の方を再度向けば「何か聞こえた?」と誤魔化すように机に突っ伏していた。
 ……まあ、言いたくないんだったら別に良いんですけどね。