不意に後ろから冷たい風を感じ無意識に肩が跳ねる。そして反射的に後ろを振り返った。振り返りざまに落ち葉が鼻先を掠め通り過ぎ、後ろへと流れていく。窓を使って出入りする人なんて限られている、そう認識していても尚のこと物音を起こした人物を確認せざるを得なかった。

「やあ」
「……やあ」

 そこにはまあ、思った通りの人物が窓の縁の上に体を屈めて乗っていて。不自然に歪む口元を見て、咄嗟に辞書を後ろ手に隠してしまった。怒ってる、怒ってるよこの人。

「……ど、どうしたの?」
「人のこと吹っ飛ばしておいて良く言うよね?」
「……すんません」
「まあ、それは良いとして。ほら、忘れ物」

 放り投げられベッドの上に柔らかく着地したそれは、先ほど翔太が買ってきた今日一日のご褒美の一つとも言える夕飯の材料。放り出された衝撃で人参がビニール袋からベッドの上へと飛び出てしまっていた。

「あ……ありがとう」
「どういたしまして」

 ふ、と口元を緩めた千冬は一向に窓から姿を消そうとしない。私としてはなるべく早く帰っていただきたいかな、なんて思っているわけでして。いつもは全く意識していなかった沈黙がどういう訳か気まずく感じてしまい、髪を触る振りをして彼から視線を外した。……何だか息が詰まりそうだ。
 そんなドギマギとした行動がバレてしまったのかどうかは定かでは無いのだけれど、「ねえ」と話しかけられてしまい視線を元の位置に戻してしまって、息を飲んだ。肌寒い風と共に落ち葉が数枚部屋に入り込んで、ああ部屋が散らかってしまうなんて思える余裕も無く。向かい側にある、千冬の部屋から漏れ出す明かりと共にこの時間帯特有の闇が彼を後ろから照らす。

 闇が彼を照らす、なんて表現はおかしいとは思うけれど。私の目にはそんな風に写っていた。闇に照らされ楽しそうに、愉快そうに目を細めている彼は、何だか、一言で表すと妖しい。何故だか取り込まれてしまいそうな、そんな。

「…どうしたの?」
「っ、あ……はい」

 急に話しかけられ気が動転し、とりあえず返事をして見ると、今度は彼の方から視線が外された。私のように気まずくて、ではなく意図的に。そしてまた笑う。闇に彩られて、妖しく艶やかに。

「忘れ物、そっちにもあるよね?」
「……はい?」

 後ろ手で隠していたはずのそれを指差され、思わずぎくりと後ずさる。……ばれたか。

「だから忘れ物。さっきの返事、もう出てるんでしょ?」
「……返事」

 返事。あの暗号はやっぱり、その……そういう意味で合っていたのか。
 そう、暗号。あの暗号の解き方自体はとても単純で安直な物だった。何ということはない。ただ、頭文字を繋ぎ合わせれば良いだけのことだったのだから。深く考えすぎていたせいで、なかなか答えが導き出せずに難しく思えていただけだった。なので、暗号自体は特に問題は無い。問題なのは導き出されたその答えだ。

「私、は……」


 これまでの私は日常と言う名のぬるま湯に日々どっぷりと浸かり、その緩い暖かさに甘えてきてしまった。それは今も変わらない、けれどその代わり映えの無い温度に少し嫌気がさしてきていた。
 かと言って温度を無理に変えて、今の居心地の良い場所を壊したくは無い。けどこの代わり映えのしない温度には飽きてきた。正に堂々巡り、素晴らしい矛盾の出来上がりだ。

 だからもうこの温度は変えようとは思わない。思わない、けれど。私はこれからほんの少し湯の色を変えていこうと思う。それは淡くて儚く、少し切なさを帯びていて、とても複雑だけれど確かに綺麗な色。

 ぱさり、といつの間にか力の抜けた手から辞書が零れ落ちる。床に落ちたそれは、先ほどまで開いていたページに癖がついてしまったようで、例のページを見せびらかすように横たわっていた。
 開かれたページに描かれていたのは暗号の答えでもあり、真っ直ぐな彼の気持ちでもある。それは、その感情の形容詞は。


Ti amo  =あなたを愛してる

(そして今)(たった今)(日常に恋心を混ぜにいこうじゃないか)