「姉ちゃん姉ちゃん! 今日の夕飯カレーだから……その、」

 もじもじと不自然に指を動かしながら「一緒に作ってくれる?」と顔を覗き込まれつい頭をわしゃわしゃと撫でたくなる。……いや、我慢だ、我慢。いい加減この年頃にもなるとそういう行為は煩わしく感じるだろうし、ね。
 二つ返事で了承すると、準備をしてくると言い残してばたばたと部屋を飛び出していった。良く出来た弟だ、本当に。
 と、不意に扉の方で物音が聞こえた。翔太が戻ってきたのかと思い扉の方を見やるも誰も居ない。視線を僅かに下に向けると、そこには愛犬が愛くるしい目でこちらを見上げていた。どうやら翔太と入れ違いになって入ってきたらしい。

「ああ、ダンか……おいで」

 ちょいちょいと手で合図をすると、嬉しそうにこちらに駆け寄ってきた。ベッドの上に飛び移り、私の膝の上に居座る。

 この『ダン』という名は、私たち家族が付けた名前ではない。数日前に失踪した際に預かってくれた親切な方がつけてくれた名前だ。名前の由来を聞いても苦笑いしか返ってこなかったのが少し気になったのだけれど、本当に感謝している。飼い始めたばかりだというのに、妹が目を離した瞬間に居なくなったと聞いたときは血の気が引いたというものだ。
 あの時は妹が一向に泣き止む気配が無くて参ってしまっていた。家族総出で必死に様々な人に聞き込みをしたり、ポスターを貼って近所を何度も見回りをしたり。今思えば、睡眠時間を削ってひたすらに探し続けていた。無事に帰ってきた時の妹の表情を見たら、そんな苦労はさっぱり消え去ったのだけど。

 そんなことを思い出していたら、下腹部の方に違和感。もぞもぞと何かが擦り寄ってくるようで、何だかくすぐったい。
 確認してみるとダンがセーターのポケットの中に頭を突っ込んで手足を動かしていた。その姿は頑張って抜け出そうとしているようにも見える。って、え、抜けなくなったんですか。

「何やってるの、この子は……」

 じたばたと暴れるダンの体を掴んで引っ張る。すぽんと効果音がついてしまうぐらいに勢い良く抜け、一安心すると同時にどこか違和感を感じた。
 疑問に思い良く良く観察するとダンが何かを加えている。紙、のような何か。あれ、さっきまでそんなのくわえてたっけ?

「ちょっと見せてね、ダン」

 紙を良く見ようと引っ張るも、なかなか離してくれそうにない。むしろ取られるまいと歯を食いしばって耐えてるように見える。くっ、この頑固者め。ちょっと見せてくれるだけで良いのに。
 負けずと紙を引っ張り綱引き状態になっていると、ちらりと紙に綴られている文字が見えた気がした。
 ああ、何かと思えば先ほど千冬が私によこした紙飛行機じゃないか。そういえば後で解こうとポケットの中に突っ込んだままにしておいたんだっけ。だとしたら、尚更取られるわけにはいかない。もし破けたり何かしたら暗号なんて解けるわけがな「あ、」

「…………」

 嫌な予感がした。予感というより、音が聞こえた。ねえ、今ビリッて音しなかった?ねえ、今手紙が目の前で分裂した気がしたんだけど、これもしかして細胞分裂とか出来る系の手紙なの? そうか、なるほど、それなら仕方ない。

「……んな訳あるかァァァ!」

 破けたよ! 今目の前で紙が破けやがりましたよ! 見事に紙が縦に裂けましたよこの野郎! 何でダンはそんなしてやったりみたいな顔で私を見上げてくるんですか。ドッキリが大成功した仕掛け人みたいな表情しないでください。私がそう見えてるだけだけれど。
 念の為、文字列を確認してみる。

『 To
  i

  ay
  mom
  o     』

 あ駄目だこれ。元々何が書いてあったかなんて覚えているわけがない。
 どんよりと重たい空気を背負った私にワンっと慰めるような鳴き声が聞こえる。念の為言っておくけど、こうなったのは君のせいだからね。い、いや、ムキになっていた私も悪いんだけれどそれでも七:三の割合で君が悪いんだからね。
 まあ、ダンを責めても仕方がない。改めて紙とご対面するも、やはり暗号なんて解ける気がしない。再び膝の上に座ったダンの頭を撫でてやりながら、ヒントのなりそうな千冬の言葉を思い出してみる。

『それ、普通に読んじゃ駄目だからね?』

 だったらどう読めと言うんだ、……もしかして、ひっくり返すとか読み方を変えるとか、そんなことを意味しているのだろうか。ううん、と頭を捻る。と、ある単語が目に飛び込んできた。
 間違い探しだとか、そういうものは答えを一度知ってしまうとその絵が浮かび上がっているかのように錯覚するけれど、今まさに私がそれと同じような感覚に陥っていた。

「……あれ?」

 複数の文字列からある一文だけ、意味が通じる文を発見した。発見してしまった。木を隠すなら森の中とは良く言うけれど、文字を隠すなら文章の中とでもいうように、この一文以外の文字は全てカモフラージュだということなのか。

『……僕は中国語とか英語じゃなくってスペイン語の方が好きだな。何というか、雰囲気的に』

 ……いやいや、まさか、そんな。ありえない、と軽く頭を振るも念の為、どうして購入したのか思い出せないスペイン語の辞書を本棚から取り出しページを捲る。割と有名なスペイン語だとしても、一応今一度意味を理解しておく必要がある。すぐに目的のページを探り当てザッと目を通し、いやいやまさか、と言葉が再度頭の中をぐるぐると回り頭を振った。