「ほら、寝るんだったらちゃんとベッドで寝なさい」
「えー……」

 文句言わないの、と背中を小突くと離れたくないと言わんばかりにむぎゅっと抱きしめられる。急に締め付けられたせいで「ぐえ、」と喉から変な声が絞り出てきてしまった。嫁入り前の娘になんて声出させるんだ。
 ……ん、あれ? 呼吸が出来ないんですけど。生物に必要不可欠な酸素が吸収出来ない状態にあるんですけど。ちょ、死ぬ死ぬ。圧迫死又は窒息死しそう。
 酸素を取り入れようと四苦八苦していると、どこか遠くから騒がしい音が聞こえてきたような気がした。

「……一緒に寝てくれるんだったら考えてあげても、あ」
「ギブギブ、死ぬ。酸素不足、へるぷみー。何さりげなく押し倒そうとして……ん?」
「来た……」

 そう呟いたのを確かに耳にしたと同時に、首筋周辺でため息らしき感触を感じた。何が? と問うよりも前に先ほど聞こえていた音が少しづつ大きく……いや、近付いているのが分かる。かと思えば、開いたままだった窓から突如轟音が響き思わず肩が跳ねた。
 何の音だと確認しようにも千冬によって身動きが取れない上、彼が邪魔でそちらの様子も伺えない。まあ、大体想像は付くけれど。多分、誰かが私と同じように窓から窓へと飛び移ったのだろう。むしろそれ以外思いつかない。

 そしてこの千冬の反応や私の部屋の窓を飛び移ることが可能であるということに該当する人物は一人しかいない、と思う。
 その人物はこの部屋に入るやいなや、近所迷惑だとも思える音量で話し始めた。

「姉ちゃん姉ちゃん、ただいま! またあいつの部屋なんかに来てるの? 駄目だよ! 姉ちゃんが汚れちゃうか……ら……」

 ピシリ、と空気が固まったのが反応を見なくても分かった。ああ、よりにもよってこんな時に帰ってこなくても良かったのに。今の私達の状態は弟の目にはどのように写っているのか、だなんて思考するよりも先に答えは出ていた。

「……ね……ね、姉ちゃんに何しやがんだこの野郎ォォォ!」

 弟……翔太の叫び声と共に私を苦しめていた締め付けが無くなった、と同時に凄まじい風が轟音と共に目の前をかすめていく。
 簡単に現状を説明するとなると、まあ、何だ。千冬が弟の飛び蹴りによって机にまで吹っ飛ばされた、以上。

 あんぐりと口を開けたまま千冬が飛ばされた方向を見ていると、ふと視線が遮られた。癖一つ無い綺麗な黒髪に子犬のようにくりくりとしている潤んだ瞳、そしてわなわなと震える小さな口元。間違いない、正真正銘私の弟だ。
 買い物から帰宅し一早く私の部屋に駆けつけてくれたのだろうか、ベッドの上には夕飯の食材と思われる物が詰まったビニール袋が放り投げられていた。
 冷静に状況判断をしていると急に両肩をがっと掴まれて目を丸くしてしまう。そのまま前後に揺さぶられて、ついでに脳も揺さぶられているようで、あ、何これ目が回る。誰か助けて。

「姉ちゃん、大丈夫!?」
「う、うん、一応。だから、その、う、落ち着い、て」
「な……何もされてない? 何もされてないよね!?」
「現在進行形で君にその何かをされています。お姉ちゃん脳が破裂しそうだよ」
「あ、あああごめん! ごめんなさい!」

 肩を開放してくれたのは良いのだけれど、まだ揺さぶられているという感覚が一向に抜けない。目の前がちかちかとしたまま宙に視線を漂わせていると、翔太が千冬に鋭い視線を向けた。

 この二人は昔から仲が悪い。相性が悪いのか、それとも本能が拒絶するのかは分からないのだけれど、とにかく仲が悪い。
 だからと言って今更二人の仲を修復しようとは思わないし、元々修復出来るような仲でも無かったし。
 そもそもお互いがお互いに好意を向けようとすらしないので、仲良くさせようと努力すればするだけ無駄というものだ。なので今はもう、仕方のないことだと諦めて割り切ってしまっている。私が茶々を入れてもあがいても、結局はお互いの問題だからね。

「姉ちゃんに何てことすんだよ、てめえ。姉ちゃんを犯して良いのは僕だけなんだから!」
「……、ん、あれ、今何か凄いこと言わなかった? ねえ今爆弾発言落とさなかった?」
「あ、ごめんね姉ちゃん! 揺すりすぎちゃった、大丈夫?」
「いや私よりも君の発言のほうが大丈夫じゃなかった気がする」
「……気のせいだよ?」
「最近お姉ちゃん気づいたんだけどさ、翔太って返答に困ったときには大体気のせいにしてるよね?」
「気のせいだよ?」

 にこにこと笑いながらそんなことより、と私の手を取る弟に苦笑いを浮かべてみる。え、そんなこと? そんなことで片付けて良いの?

「さ、姉ちゃん! 一刻も早くこんなところから出よう!」
「え、けど千冬が……」

 千冬の方へと振り向くよりも早く手を身体ごと引っ張られ、ぐんと窓の方……いや、窓の外へと視界が傾く。あれ、これ、落ちる気しかしないんですけど?

「大丈夫だよ、あいつは死んでないと思うから」
「大丈夫の許容範囲広すぎない? って、わ、……わわっ」

 落ちる。目を瞑って衝撃に耐えようとするけれど、いつまで経っても全身を駆け巡る強烈な痛みは訪れない。代わりにぼふんと良く知っている感触が身体を受け止めてくれた。
 恐る恐る目を開けてみると、そこは見知った私の部屋の中。良く知っていると思った感触は、毎晩身体を休ませてくれている私のベッドの上だった。どうやら翔太が私を引っ張って窓を乗り越えたらしい。いやはや、寿命が縮むかと思った。
 少し叱ってやろうか、そう思って弟の方へと向き直るも、ニコニコと満面の笑みを浮かべられては先ほどまでの感情も溶けて消えてしまう。……まあ、仕方ないかな。本人も悪気があったわけでもないし。

 そうやって毎度毎度許してしまう私は重度のブラコンだと自覚している。甘やかしてきたから弟もこんな性格になってしまったんだとも思う。
 うん、まあ仕方ない、だって可愛いんだから。