「…………へ、くしっ」
う、さぶ。鼻を軽くすすって慌てて二の腕を摩る。
よし、暗号は後で考えるとしようか。分からないものは分からない。仕方ないよ、うん。そう自分に言い聞かせつつ、紙をポケットの中に突っ込む。
そしてまたくしゃみを一つ。まだ冬には程遠い時期だとはいえ、さすがに夜になると冷える。何か羽織ってきたほうが良かったかな。今現在の私の格好は制服のスカートとシャツ、セーターのみ。せめてブレザーぐらい羽織れば良かったよちくしょう。
「……ん、何寒いの?」
「ええまあ、それなりに」
私の異変に気付いたのか、休むこと無く働いていたペンがぴたりと動きを止めた。ペンが机の上に寝そべった音がやけに大きく聞こえる。
ちなみに、彼は私と同じように制服のシャツとズボンにダボダボとしたセーターを着ている。……寒くないのだろうか。寒い素振りなんて一切見かけてはいないのだけれど。
「千冬こそ寒くないの?」
「……僕? 僕は別に……」
そこまで言ったところで言葉を止め、顎に手をあてて何かを思案する千冬。その姿はさながら考える人の像のよう。そんな姿でさえも絵になるぐらいに綺麗だと思えるから不思議だ。
不意に顎に手をあてるのを辞めた千冬がこちらに顔を向けてきた。それも満面の笑みで。……え、何、怖い。
「うん、寒い。僕今すごい寒い、凍えそう」
「さっき『僕は別に……』とか言いかけてませんでしたっけ」
「ごめん、僕未来に向かって全力疾走するタイプなんだ」
「過去のことなど知らんと」
「過去のことにばかり囚われ続けると未来に支障が出るよ?」
「さっきの発言に支障を起こすほどの影響力は無いと思うけどね」
一体急にどうしたんだこの人は。それと、どさくさに紛れてさりげなくにじり寄ってくるのやめてもらえませんか。何もしてないはずなのに怖い。主に良く分からない気迫とその表情が。非常に怖い。
「ねえ」
「はいなんでしょう」
急に地面が大きく揺れたかと思うと、千冬がいつの間にかベッドの上へと移動していた。二人分の重さに耐え切れずに、千冬が動くたびにベッドが小さくと悲鳴を上げる。ちょ、スペース狭くなるんでなるべくこっちに来ないでください。ただでさえこのベッド小さいんだから。
「僕を暖めて欲しいな?」
「……ストーブ又はエアコンのリモコンを渡してくれれば今すぐにでも」
「や、そうじゃなくて。もっとこう、間接的にじゃなくて直接的にというか」
「何、こたつでも出す? おでん買いに行こうか?」
「…………いや、そうでもなく」
はぁ、と見せつけるように大きく溜め息を吐かれて少し苛つく。何なの、はっきり言ってくださいよ。私はそんな全ての物事を把握出来るほど頭が切れるわけじゃないんだから、きちんと言葉で説明してもらわないと。
と、ふと一つの案が頭の中に思い浮かぶ。……ははん、さては。
「千冬、千冬」
「……何」
窓の縁に寄りかかるのをやめ、彼の近くへと座り直す。こいこいと手を振ると、怪訝そうな表情を浮かべながらもこちらに身を寄せてきてくれた。そして正面から勢い良く抱きつきそっと腕で包み込んでみる。私の方が体格的に少し小さいので、包み込むというよりはしがみついている、というほうが近いのだけれど。背中をぽんぽんとあやすように叩いてみる。壊れ物を扱うようにそっと、優しく。
「おーよしよし」
「……な、」
「あれ? 違った?」
「え……は、え?」
ぽんぽんと叩く手を止めずに、気づかれないようそうっと髪を触ってみる。もっとつんつんとした感触を想像していたけれど、意外に柔らかくて暖かいそれに少し驚いた。
「……中らずと雖も遠からず、だけどさ」
「や、だって私の弟は良くこうやって甘えてくるよ?」
「……弟? 翔太のこと? あいつ確かもう高一だったよね?」
「うん」
「いや、『うん』じゃなくて。……何とも思わないの?」
「何が?」
「だから……や、何でもない」
何を言ってるんだこの人は。頭の中に疑問符を浮かべつつも弟のことを考えてみる。
幼い頃は一人では何も出来ないと言ってもいいぐらいにヘタレで、困ったことがあればすぐに私を呼んでいた翔太も、今では家事の大半を任せられるほど成長した。反抗期というものが訪れないのか、はたまたまだ来ていないのかどうかは分からないのだけれど、自分から進んで家事を行ってくれているのは凄く助かっている。
今は確か夕飯の買出しに行ってくれているはずだ。夕飯も翔太が作ってくれるらしい。うん、楽しみ。そろそろ帰ってくる頃だと思うんだけど……。
「……翼?」
「……え、何?」
物思いにふけっていたら急に名前を呼ばれ、現実へと引き戻される。
翼、というのが私の名前。……なんだけど、正直言って私は自分の名前があまり好きではない。何というか、もう少し女の子らしい名前にしてほしかった。琴音だとか美桜だとかさ。名前の周りに花が咲いてそうなイメージの、響きが可愛い名前に。
なのに翼って何だ翼って。人それぞれ違うとは思うけどサッカーやってそうなイメージしか湧かない、少なくとも私は。
それと同じような理由で千冬も自分の名前はあまり好きではないらしい。出来ることなら名前を取り替えてしまいたいものだ。
「……翼、僕の話聞いてる?」
「え……あー、うん。聞いてる聞いてる。あれでしょ、目玉焼きを焼くには右目と左目どっちのほうが良いかっていう話でしょ?」
「うん、全然違うよね。誰がそんなグロテスクな話をしたんだ。目玉違いだから、それ」
「ごめん、全然話聞いてませんでした」
「……そんな気はした。ほら、充分暖かくなったから離してくれる?」
「あー……、ごめん」
千冬の体が腕から離れる直前に軽く頭を撫でてやると、どういう訳か眉を寄せられてしまった。……翔太なら歓喜するんだけどな。それはもう、発狂するぐらいに。
「ん、ありがとう」
「うん」
礼を言われるほどのことはした覚えは無いのだけれど、と心の中で呟きつつやり場のなくなった手を下ろす。「お礼に、」と言葉を続けながら小首をねだるように傾げた彼に、不覚にも心臓が締め付けられたような感覚に陥った。
「僕も暖めてあげるよ」
「うん。……うん?」
曖昧に返事を返した後、何を問いかけられたのかを考えるのに至るまで数秒。それを理解するよりも前に、暖かい何かに体を包まれ言葉を無くす。柔らかい。その何かが千冬だと認識すると自然と頬が緩んだ。
「何だ、やっぱり嬉しかったんじゃん。素直じゃないね。……よしよし」
ぽん、と何とか動ける右腕で背中を優しく叩く。手のひらで繰り返し離れてはまた感じる、弾むような体温が何だかほわほわとして心地よく、しばらく楽しんでいると少しだけ抱きしめられる力が強くなった気がした。
「……やっぱり弟と同じ扱いかよ」
「……ん、何か言った?」
「いや、別に」
あからさまに溜め息を吐き落ち込む様子を見かねて「何だ、その、頑張れ?」と励ますと「努力するよ」と曖昧な返事が返ってきた。……どうしたんだ、一体。
不意に、首筋に顔を埋めたまま擦り寄るようにもぞもぞと動き始めたので、逃げるように身をよじる。さらさらとした髪の毛が猫じゃらしのように頬や首を掠めてくすぐったいったらありゃしない。
「ちょ……何かくすぐったいんですけど……」
更に髪が当たり、少し抗議をするつもりで声をかけてみる。返事は無い。以前として首筋に与えられている感覚も途絶える気配すら無い。何の嫌がらせだちくしょう。
「何ですか、まだお母さんに甘えていたいお年頃だったりするんですか」
「あながち間違ってもいない」
「え……。……甘えん坊さんでちゅねー」
「…………」
「ごめん謝るから無言で訴えるの止めて。私が頭の弱い子みたいじゃん」
「あながち間違ってもいない」
「嘩売ってるんなら買うよ?」
軽く握りこぶしを作ってみたが、返ってくる返事は「んー」だの「あー」だのと曇っている。
……ああ、何だ。眠いのか。とことん自由な奴だ。