「うーん、暇。ねえ」
「はいなんでしょうか」
「『美術室技術室手術室 美術準備室技術準備室手術準備室 美術助手技術助手手術助手』って十回言ってみて。あ、息継ぎなしで」
「え、無理難題すぎる。ハードル高すぎてもはや見えないんですけど。霞んで見えるレベルなんですけど」
「これ言ってくれたら僕勉強頑張れる気がする、多分」
「挑戦しても良いけど多分最後のほうは人間が発生不可能な言語に変化してると思う」
駄目? とこっちを見てくる千冬に思わず頭の奥がくらりと揺れる。顔だけは異常に整っていらっしゃるんだから見つめてこないでください。
話を逸らそうと慌てて手に持っている本の内容から話題を探すと、ある一文が私の目に飛び込んできた。ちょっとした豆知識のようなものを彼に伝えようと口を開く。
「あ、ねえ」
「何?」
「世界で一番使われてる言語って英語じゃなくて、中国語なんだって」
「ふーん。……僕は中国語とか英語じゃなくってスペイン語の方が好きだな。何というか、雰囲気的に」
「横文字のほうが何かかっこいいしね。スペイン、スペイン」
「うん。……で、いつ言ってくれるの?」
「何の話でしょうか」
「いやだから十回」
「何の話でしょうか」
「……何でもない」
しぶしぶ机に向かった千冬を勝ち誇った顔で眺めてみる。よし、回避成功だ。あんなの唱えたら得体のしれない何かを召喚しちゃいそうだわ。
話が一区切りついたところでまた沈黙が部屋を支配する。……これ、私はもう帰っても構わないのではないだろうか。
と、千冬が突然こちらに紙飛行機を放り投げてきた。ふわりふわりと緩やかに弧を描いてこちらに向かってきたそれは、私の足元にぽすりと力無く落ちる。
「……?」
何? と頭に疑問符が浮かんでいる状態で彼の方を見やると、机に視線を預けたまま「それ、解いてみて」との返答が返ってきた。首を捻りつつベッドに転がった紙飛行機を拾い上げて見てみると、ノートを一ページ分使ったようで、折り目の隙間に何か文字が書いてあるのが分かった。
「ええと、何々……?」
手紙の内容にざっと目を通してみる。男にしては丸く可愛らしい字で綴られている文字列には、こう書いてあった。
『 Tomomi
isako
ayumi
momoka
ouka 』
「…………。……んん?」
え、手紙にはローマ字で表記されている女の人の名前が羅列されていて、え、本当に何これ。最早私の頭の中には疑問符しかない。
「何ですか、これ。今まで付き合ったことのある人達の名前とかでしょうか」
「違う違う。それさ、解けたら答え聞かせてよね」
「ええー……」
正直わかる気がしない。何を意味してるんだ、これは。読み途中だった本を泣く泣く閉じ元あった本棚に戻すと、元紙飛行機、現謎の暗号とにらめっこしてみる。
とりあえず内容をそのまま日本語に訳してみると……ともみ、いさこ、あゆみ、ももか、おうか……? ぱっと分かる共通点は全て三文字だということと、全て女の人の名前だということ。それと、いさことあゆみの間に不自然な間が空いているということ。ううん、このことが関係するのかそれとも全く違うことを意味しているのか……。
「うん、さっぱりだわ。ごめん、もう白旗上げてもよろしいでしょうかね」
両手を天井に向かって突き出し『降参』のポーズをしてみる。千冬はそんな私をちらりと見た後、また机の方に視線を奪われてしまった。
「駄目。……ちょっとヒント。それ、普通に読んじゃ駄目だからね?」
「すみません余計に謎が深まりました」
「頑張って」
「ちくしょう」
対して良い情報も得られず、上げた手を元に戻し暗号と改めてまたご対面。『普通に読んじゃ駄目』って……そりゃ普通に読んで解けたら暗号じゃ無くなるわ。そんな当たり前のこと誰も聞いてないんですけど。再び頭を抱えてみる。
ふと開いたままだった窓から落ち葉がひらりと舞って入ってきた。落ち葉の軌道を辿るように窓の外へと視線を移すと、家と家の僅かな隙間に存在している空はもう黒一色に染まっている。
曇っているのか星はおろか月さえ見当たらず、そこにあるのはただの闇だけ。じっと見つめていると何だか身体ごと吸い込まれそうだ。