おはよう


 もしも現実では絶対に有り得ないような事柄が起きてしまったとして。
 それを目の当たりにした人達は勿論、多種多様な反応を示していくと思う。

 ある人は驚愕し、ある人は恐れ、またある人は現状に快楽を見出し楽しんでしまう。そんな中、私は一体どんな感情を表してしまうのだろう。……他力本願だと自覚している私は多分、そんな特別な行事に少なからず期待をしてしまうのだと思う。
 少しばかり後ろ向きなこの日常をふと転換してしまうような。そんなきっかけの鍵を見い出せるのではと。

 そんな妄想を繰り広げては見えない誰かに現実を突き返されるのでした。


+ + +


 慌ててマンションに走り込む。『ペット不可』だなんて書かれた張り紙を見なかったことにして、エレベーターのボタンに指を埋める。中々減らない階の数字に意味もなくその場で足踏みをし、ボタンを連打。連打。……早く!
 効果は無いと分かってはいても指は止まらずに。待ち望んだベルの音と共に、開いた扉の向こう側へと身体を滑り込ませた。

「……はっ……、」

 数字を睨みながら息を整える。
 そういえば傘を開いたままだったと慌てて畳み杖代わりに体重をかけた。折りたたみ傘だという事実をすっかり忘れて行ってしまったその動作、おかげで傘の軸が畳まれ大きくよろけてしまった。猫を落とすまいと大きく一歩踏み出し、何とか転倒はせずに済んだ、けれど。

 ……何をやってるんだ、私は。
 一旦落ち着こうと酸素を肺へと取り込んだ瞬間。音と共に扉が左右に開いてしまい、吐ききることも忘れたまま再度走り出した。

 エレベーター手前から三番目の扉の前に立ち、肩で息をする。
 鞄から四苦八苦鍵を取り出すと、勢い良く鍵穴に突き刺した。慌てているせいか上手く鍵が差し込めない。もたついてしまう手に必死で命令を下して、上下反転させてから再度鍵を開ける。

 中に入ると同時に傘や荷物を放り投げ、手を使わずに器用に靴を脱いだ。
 寝室のタンスからタオルをありったけ抱え、そのままお風呂場へと直行。
 ガスの元栓を空けたところでようやく一息つき、目の端で今更ながらに猫ちゃんの様子を見る。出来る限り体温を確保しようと重ねたタオルの隙間から覗く顔は、暖かそうに静かに目を閉じていて。

「……寝てる」

 苦しいのかどうかすら判別が難しい表情で体を揺らす彼(彼女?)に少しだけ胸を撫で下ろした。

 ……もしかして、本当は弱ってなんか無かったのかも。良く良く考えれば、すでに雨風は凌がれていたんだし。余計なおせっかいだったかもしれない。
 少しずつマイナスへと感情が傾いていき、いけないと頭を降って考え方変える。とにかく、この子を洗ってあげないと。

 タオルごと桶の中に入れ、泥であちこちが変色してしまっている毛並みを見やる。可哀想に思いながら優しく撫でて器用にガスの元栓を開けた。 シャワーヘッドから撒かれる水が少しずつ湯気を生み出していく。温度を見てから猫ちゃんに向き直り、……それから少しだけ戸惑った。

 ……ええと、直接お湯をかけても良いのかな。もしかしたら驚いてし、死んじゃったりとかしないよね。それともお湯を張って少しずつ温度に慣れさせたほうが良いのかも、いやそれだと時間が掛かってしまう。

 うんうんと唸りながら頭を抱えていると、ブルリと猫ちゃんが身震いをした。衝撃で泥がこちらまで跳ねてきて、頬に着地し体が強ばる。
 お……起こしてしまったのだろうか。最低限の動きを止めて穴が開いてしまわない程度に凝視してみる。

 嫌な予感が見事に的中。
 猫ちゃんは手足を僅かに動かして数回瞬きをした後、眠たげに瞼と体を起こしてしまった。……やってしまった。

 まだ頭が正常に機能していないのか、騒ぐことも鳴くこともせずに首だけを動かして現状確認。そして私の存在に気が付いたのか、桶からするりと脱出して私の足元へと移動してきた。ゴールへと辿りついた猫ちゃんは前足を足の甲に置いて。……っくおぉ!
 その可愛さや肉球の柔らかさ、起こしてしまったことへの罪悪感。様々な事象で目が回り、無意味に臨戦態勢を取ってしまった私に向かって猫ちゃんは言った。

「うん。良く寝た」

 確かにそう聞こえた後、ぽひゅんと何とも間抜けな音と共に風と煙が立ち込んで視界を簡易的に奪う。いつの間にかシャワーが手から離れていて。床で暴れ回っていたお湯の湯気も手伝い軽く咳き込みながらも目を瞑る。

 数秒経って放置していた水音が収まり、全身を覆う熱気が気持ち引いたような気がして。恐る恐る目を開けると、少しだけ靄がかかった世界に、確かに人型の何かがそこに立っていた。

 ……え?


おはよう
(なんて言ってる場合じゃ無いですよね)