「……楓?」

 準備室を出てしばらくの間廊下を小走りで移動し続け、七つ程教室を越えた辺りでいい加減に痺れを切らし、彼に呼びかけるも反応は無い。表情を伺おうにも、私が見える範囲は思っていたよりも少し広い彼の背中だけだった。これじゃあ喜怒哀楽さえも掴めない。
 もう一度彼の名を呼ぼうと口を開いた途端、廊下の終着点の手前で一直線だった進路を変更され言葉が途切れた。変更先は廊下の端の空き教室。

 手を振りほどこうにも解くことは出来ず、そのまま引っ張られるかのように教室の中へと足を踏み入れた。中は使われていない教室だというのに綺麗にされていているようで、少しだけ驚く。ああ、確かここは文芸部が使ってるんだっけ。
 完全に放置されてはいないんだなと一人で納得していると、少し乱暴に扉の閉まる音が随分と間近に聞こえた。慌てて振り向こうとすれば、顔のすぐ横で何かに邪魔をされ身動きが取れなくなる。何か、とはどうやら楓の腕のようで。
 繋がれていたままだった左手を背後の扉に押さえつけられていて、挟むようにまた顔のすぐ横に手をつかれる。慌てて左手を動かそうと試みるも、うんともすんとも言ってくれはしなかった。

「……か、かえ」
「あのさ」

 明らかにいつもより雰囲気も距離も違う彼に耐え切れず話しかけるも、言葉を被せられる。ふと顔を上げた楓と目が合い、瞳に写っている私自身とも目が合った。近い。

「俺が何で怒ってるのか分かるよね?」

 すみません分かりません。そう声に出そうとしてもこの空気の中、そんなことを言える勇気なんて持ち合わせてはいない。ぐ、と言葉を飲み込み口を軽く結ぶと意地悪く目を細められた。

「可愛いから良いんだけど。いや……だからこそあんまり無防備なのも困るな?」
「……え」

 繋がれていた手の指と指の間にするりと楓のそれが入り込み、そのまままた繋がれて押さえつけられる。俗に言うこ、恋人繋ぎというやつだ。
 どうしてこうなっているのかさえ分からないけれど、そういえば楓に触れたのはこれが初めてかもしれない、なんてどうでも良いことを考え始めてしまう。頭は一杯一杯なくせして、一体何を考えているんだ。

「そんなんじゃ何をされても文句なんて言えないよ」

 耳たぶをはむ様に話す声、距離、かかる吐息、全て楓に集中してしまう。神経が全て偏ってしまったかのようで。
 いつの間にか左手だけでなく背中で体重を扉に預けていて、足の力が抜けると思ったらそのままずるずると床に崩れるように座り込んだ。その動きに合わせて覆いかぶさるように彼も腰を屈める。やはり近い。さらさらとした彼の黒髪が頬にかかった。くすぐったい。
 けれど、不思議と怖いとは感じなかった。違う、むしろそれとは逆で。

「……大丈夫?」

 どうしようもなく愛しい。

「……ごめん、少しいじめすぎた」

 少しだけ握られていた手が緩み、繋がれていない手で優しく頭を撫でられた。すっかり頭を撫でるのが癖になったらしい。数秒経ち頭の上の体温が感じられなくなったと同時に、また彼が口を開いた。

「爽はさ、自分を探すなんて言ってるけど。そんな寄せ集めたような個性じゃ自分自身が一人歩きして置いていかれるだけ。自分を取り付ければ取り付けるほど自分らしさが埋もれていく……と俺は思う」

 何だか切ないような、悲しいような顔で訴えられ少し動揺する。それは私にだって分かってる。それは多分、水面に浮かべた葉っぱが静かに底に沈んでいくかのようで。けど、それでも。

「だから、爽は爽らしくいて」
「私らしさって何?」

 私にはその個性の部分が酷く曖昧だ。
 彼は問いかけられると思わなかったのか、少し目を見開く。けれどそれは本当に一瞬のことですぐに表情が戻った、かと思ったら柔らかく微笑んだ。

「それは俺がこれからゆっくり教えるから」

 第三者のほうが分かることもあるんだよ? と笑う彼を見ていると、唐突に先生の言葉が再生された。

 『探究心と口実を履き違えるなよ』

 ああ、なるほど。私はただ単純に、楓との話の種が欲しかっただけなんだ。
 案外あっさりと出たその口実の答えに驚きもせず、むしろすんなりと受け止める。多分、私は最初からそのつもりだったのかもしれない。
 本当は自分の個性だなんて分からなくてもどうでも良くて。本当は、……ただ、彼と話すのに何か言い訳が欲しかっただけで。

「……だから」

 は、と気付けばいつの間にか彼の腕の中に収まっていた。背中に回った手が暖かく、柔らかく、私の全てを受け止めてくれているかのようで。何だかどうしようもなく罪悪感を感じた。
 こんなに真剣……かどうかは分からないけれど、少なくとも私よりも自分探しについて考えてくれていただなんて。本人には探究心とは真逆で不純な動機があったというのに。

「俺から離れないでいて」

 ぐ、と更に密着する距離で申し訳ない気持ちで溢れかえりそうだった。……けれど。ごめんなさい、もう少しだけ、話の種として使わせてください。

「……うん」
「……爽」
「じゃあ、あれだね。自分探し作戦Bを実行することにしますか」
「うん。……うん?」

 空気が固まった。いや違う、まるで動くことを忘れたように楓の動き、呼吸までもが止まったのが伝わってくる。

「……ん、あれ?」
「……俺の言い方が悪かったのか」

 はぁ、と深い溜息と共に肩に少しの質量を感じる。楓が脱力したようにいつの間にか拘束を開放していて、肩を見れば私に頭を預けていた。

「……私、何か変なことでも言ったっけ」
「いや、別に……」

 何でもない、何でもないからと首に顔を埋める彼にくすぐったいよと笑うと、返事の代わりにまた大きなため息が聞こえてきた。
 ……何だったんだ、一体。


 どうやら彼女は鈍感属性だった模様
(俺、今の)(告白のつもりだったんだけど……)(まあ良いか)