ちょっとしたパニックを起こしていると不意に、視界が揺れた。と思ったらすぐに視界が暗転。目を開けても閉じても暗闇が変わることはなく、たばこの香りに押し付けられているようだ。

「少しだけ我慢しろよ?」

 そう耳元で囁かれた声で初めて先生に抱きしめられていると分かり、見えないと分かっていても目を見開いてしまう。

「先、生……? ロリコンの気でもあったんですか?」
「ちょっと黙っててくんない? 俺泣くよ?」

 締め付けるかのように腕の力が強くなり、酸素が中々取り込めなくなってくる。「苦しいです」そう訴えても「もう少しだから」の一点張りだ。一体何に対してのもう少しなんだ。
 疑問に疑問が積み重なり、そのまま混ざって何だか脳がマーブル模様になりそうな気がする。要するに今、頭の中がごちゃごちゃだ。

「……そうら、来やがった」

 少しの沈黙の後、そう先生が言った……気がする。『気がする』というのは、先生の声が何かの騒音でかき消されてしまったからだ。それが何の騒音なのかまでは把握不可能なのだけれど。だって、今の私に見えるものは先生の暗闇だけで。
 視覚に頼ることが出来ず、仕方なく聴覚に頼ってみる。聴覚さんお願いします。騒音が少し収まったと思えば、誰かの荒い息づかいに音を立てて崩れ去ったと思われる資料の山。ああ、折角入口付近に積み重ねておいたのに。ほこりまみれで大変だったんだけど。
 そんなどうでも良いことを考えられるのは多分、準備室に突入してきた彼の正体に薄々勘付いているからだろう。何でそう思ったのか、彼がどうしてここに来たのかその理由は分からないのだけれど。そして、確かに近づいてくる足音。

「……教師が生徒に何手出してるの?」

 いつもより低く耳まで響いてくるそれは何だか彼じゃないみたいで、少しだけ心臓が跳ねた。その声色は何だか怒っているのか、不機嫌なのか、とにかくそんなような感触で。その感情が自分には向けられていないと悟っていても尚、生きていると主張する音はひどく体の中で鳴り続けていた。

「お前には関係ねえだろ?」
「あんなメール寄越しておいて良く言うよね?」

 パカ、と何かを開くような音が耳に届き、きっと携帯を開く音だろうと勝手に自己解釈してみる。以前目の前が真っ暗なままで、声を出そうにも想像以上の圧力がかけられているようでくぐもってしまった。
 どうすることも出来ないまま身動き一つせずに大人しくしていると、不意に体の締め付けが無くなる。同時に光が差し込んできて目が眩んだ。思わず目を瞑ると、また体を軽く拘束されるが、瞼越しに見える鈍い光は変わらない。
 どうやら私は突入してきた彼、楓に後ろから抱きしめられているようだ。……って、え。

「とにかく返してもらうよ」

 頭の上から降り注いでくる声に少し動揺する。とりあえず一つだけ分かることは楓は何か勘違いをしているということだけ。だって話がどこか食い違っている。
 多分、楓の口ぶりから先生が意図的に勘違いするよう仕向けたのだとは思うんだれけど。恐る恐る目を開けると、やはりニヤついた顔の先生と目が合った。

「まあ、あれだ。先生と生徒の禁断の愛ってのも良いもんだな?」
「……ふざけんなよ」
「冗談だ」

 ひらひらとおどけたように手を振る先生に反応したのか、抱きしめる力がより強いものになっていく。それと比例するかのように、私の鼓動もより大きく私の中で鳴り響いた。
 そう思ったら、再度体の拘束が解けて体が百八十度反転し、代わりに左手に違和感を感じる。そのまま自分自身の左手に引っ張られ、思わず倒れそうになった体を咄嗟に支えようと足を前に踏み込んだ。が、更に前へ前へと引っ張られ足を踏み込み、いつの間にか駆け足になっていた。
 このままだと準備室から出てしまう。楓に手を引っ張られながら視線だけを先生に寄こすと、引き止めようよもせず私たちを見送るかのように手を左右にゆらゆらと振っていた。