自慢だとかそういうものでは決して無いのだけど。
 今まで机の中に鼠や昆虫の死体を入れられたこともあったし、泥水の中に沈められたこともあった。トイレに頭から流されそうにもなったし、腕に彫刻刀で悪口を彫られたこともあった。
 けれど、痛みには慣れというのは存在しないようで。新たな痛みにただただ耐えるしか無かった。

 唯一、そうカウントして良いのかどうかは分からないけれどお母さんだけが私と普通に接してくれていて。最後にプレゼントしてくれた……今では形見となってしまったマフラーがあったからこそ、それらの事柄に耐えていけた。
 けれど。カッターの痛みで気を失ってしまっていたらしい私は、その間に夢を見ていた。見てしまっていた。

 笑顔のお母さんが私に向かって優しく手招きをしていて。その横にはまるで正反対なお母さんが今にも崩れ落ちそうな勢いで立っていた。血で染まったマフラーを泣きそうな、怒った顔で見つめる姿。
 あの夢から覚めた後、路地裏に放り出されていた私は何かに導かれるようにこの旧校舎へと足を運んだ。二人の肉親から導き出した結果は同じ。

 手招きをしたお母さんの元へ行くために。お母さんのマフラーをこんなにボロボロにしたことを謝りに行くために。私は、もしかしたらずっと何かのきっかけが欲しかっただけなのかもしれない。この理不尽な世界から解放されるきっかけを。
 ……我ながら夢で自分の生死を決めるだなんてどうかと思うけど。

「…………それで?」
「……、え?」

 声をかけられ、一瞬で我に返る。何を聞かれているのか理解するのに数秒掛かってしまった。

「ここに何をしに来たの?」
「………」

 彼は答えを知っているはず。なのに、何で。

「……勿論、」

 死ぬことはもう怖くは無い。それ以上の恐怖を味わってきたから。早くお母さんに会いたい。早くお母さんに甘えたい。早くお母さんに謝りたい。一刻も早く、この世界から解放されたい。なのに、なんで。
 “自殺するため。”この一言を声にするのをためらってしまったのだろう。

 黙ってしまった私を不思議に思ったのか、もう一度「ここに何しに来たの?」と問いかける彼。……何を戸惑っているんだ。抵抗をする喉から無理やり声を絞り出す。

「……自殺、するため。」

 彼の無表情が、微かに辛そうに歪んだ気がした。

「え? …………わっ」

 初めて彼が見せた表情の変化に戸惑っていると、不意に体重が後ろに傾く。ぐらりと世界が回り、星が一つもない彼の髪色をした夜空が視界いっぱいに広がった。視界の端にはお母さんの赤すぎるマフラーがちらつく。屋上の端に立っていた私は、当然後ろに床なんてものは存在しているはずもなく。片足を踏み外し大きくバランスを崩した私は重力に逆らえるはずもない。

 彼が私の肩を押したのだ。