頑張る理由


「無道様、只今帰りました」

 いつも通り慣れることのない緊張感に手を湿らせつつ、リビングへの扉を開く。長いソファの隅に身体を寄せ、肘掛に寄り掛かりながらも足を組んだ無道様。そのお姿に何だか眼球から溶け落ちてしまいそうな、そんな気がして。本当に起こりうるわけが無いと知ってはいても、つい足元がグラつき目を指で抑え肩で呼吸をする。

「ああ、おかえり」

 心無しか退屈そうというか、やる気が無さそうに欠伸を一つ。ついでにと身体も伸ばすと彼はそのままソファに乗り上がった。そのせいで肘掛に乗せている腰から上が緩やかにカーブを描いてソファの端からはみ出てしまって。ああ、可愛らしい。
 誰がどう見ても息が詰まりそうなその地味に辛い体制。そんなポーズも無道様が行うと寒くならず、途端に格好がついてしまうから不思議だ。
 体制が体制なだけにシンプルなカットソーから鎖骨が見え隠れしていて、思わず視線を不自然に逸らす。危ない危ない。本当に溶け落ちてしまう。

「あー、暇。つまんない! 葵、何か面白い話無い?」
「すみません、特には」

 リビングが見える位置に配置されている……いわゆるオープンキッチンと呼ばれる場所へと向かい、夕飯の材料だけを机に並べ他の食材は冷蔵庫の中へと納めた。
 今日はまだ夏本番とまでは行かないのだけれど。まあ、少しだけ暑かったので安売りだった野菜のサラダと一緒に素麺を作るつもりだ。早速鍋に火をかけて湯を沸かし、その間に野菜を洗いに掛かる。
 丁度ソファの向きとは反対方向にキッチンが設置されているので、座っている側からすると必然的に身体を捻るか向きを変えるかをしないと、調理の様子を見ることが出来ないようになっている。
 案の定背もたれに顎を乗せてこちらを観察してくるその視線に肌が焼け焦げてしまいそうで。手元が狂わないよう慎重にきゅうりのあくを抜いた。

「ねえねえ、学校はどう?」
「そうですね、充実していますよ。近い内に体育祭が行われるようで皆さん張り切っています」

 随分他人事だね? そう楽しげに笑われるも、実際には特に何も間違っていないのだから仕方がない。そもそも自分はどの種目に出場するのか。そういえばそれすらも依然不明なままだ。
 ううむ、少し考え込んでいるといつの間にか鍋の蓋から音と共に煙が漏れ出していて慌てて火を調節する。全く手を動かしていなかった。中途半端に輪切りされたきゅうりが心無しか悲愴感を漂わせているように見える。

「体育祭……ね。うん、いかにも青春って感じ? 楽しそうで良かったよ!」

 好意的な内容の言葉達とは裏腹に、精密に貼り付けたような笑顔からはちっとも本心を読み取れる隙が見い出せない。勿論、常に余裕があるように感じられるミステリアスな部分も、好きで大好きで狂おしい程に愛おしいのだけれど。

「……そうだね、僕も少し見に行ってみようかな?」
「……えっ」

 鍋の中に入れようとしていた麺達が意思を持ったかのように勢い良く手を滑り抜け、ばらばらに床へと散らばっていく。いやそんなことはどうでも良くて。今、何て言いました?

「……駄目?」
「そ、そんあ、そんな訳無いじゃないですきゃ」

 どんな噛み方をしているんだ。自分の頬に平手をお見舞いしたい衝動を抑え、キッチンから軽く身を乗り出すように背伸びをした。

「だよね。日程が決まったら連絡してよ、暇を作っておくから」

 常に暇な姿しか見受けられないけど、突っ込んだら負けだと言い聞かせて首を縦に振る。わざわざ足を運んで下さるのだ、私自身がこんな態度だといけない。
 新しいオモチャを見つけたかのように口角を上げる彼を見つめ、自分に小さくそう釘を刺した。