「はい、ちょっとお邪魔しますよっと」

 ベッドの上から窓の枠に手をかけ、えいやっと向かい側にある別の家の窓へと飛び移る。着地点には、また別のベッドの上。ぼすんと柔らかい音を立てながら受身を取る。成功。
 窓からちらりと下を覗くと、家と家の間にある少しのスペースの間にコンクリートと止められた自転車の姿。足を滑らせたら一環の終わりだ。ごくり、と喉が勝手に鳴ってしまう。こういうのは怖気付いたら負けだ、思い切って行動しないと。

 規則正しく並べられた本を収めた本棚、皺一つないカーペット、ゴミ一つ落ちていない床の上。整頓され過ぎていて少し物足りない部屋の中、見知った顔を見つけて少しだけ顔がほころぶ。

「……千冬!」

 名前を呼ばれた幼馴染は怪訝な顔でこちらを見てくる。何だ、その顔は。幼馴染様が勉強を教えに来てあげたのに。

「……玄関から普通に入ってくるっていう考えは無いの?」
「誠に残念ながら持ち合わせてはおりません」
「そう……」

 部屋の中央に置かれた丸テーブルに肘をついた千冬はため息を一つ吐いて隣のクッションの上を軽く叩く。『ここに座れ』との合図だ。言われるがままに席に着きクッションの柔らかさを確かめていると、机の上にばさばさと教科書やノートが降ってくる。
 千冬が用意した勉強道具。それらを何となしに眺めながら、こうなった経緯を頭の中で振り返ってみる。


+ + +


 それは今日の放課後での出来事。
 とっくにこなすべき授業が終わり、下校途中の生徒達の伸びた影が地面に落ちている頃。日直という面倒な役職を終え、オレンジ色に染まった教室を背にさあ帰ろうと鞄を片手に扉に手をかける。
 すると、不意に後ろから肩を叩かれ、勢い良く振り向くと頬に何かが食い込んだ。……よくよく見てみると、誰かの指が私の頬に軽く刺さっている。こういうときって無償に相手を殴り倒したくなるんだよね。

「……何してるんすか」
「待ってた」

 頬に食い込んだ指をふにふにと動かして感触を楽しんでるらしい幼馴染を恨めしげに睨んでみる。というより、こいつどこから湧いてきたんだ。確かに教室には誰も居なかったはずなんだけど。

「……ね、ちょっと頼み事があるんだけど」
「人に頼み事をするときは人の頬を触るのをやめなさいって先生に言われなかった?」
「ごめん、そんな英才教育受けてない」
「どこに英語が関係するんだろうか」
「……。英才教育って英語の才能の略称じゃないからね?」
「え」
「え」
「……まあ、それでさ」
「自分の非を認めなよ」
「うっさい。何か用があるんじゃないの?」
「……あー」

 ふにふにする手を止めようとしない千冬に少し苛立ちを感じながら、用件を聞いてみる。所々話が脱線して時間がかかってしまったけれど、話をまとめると要するに『赤点をとったから勉強を教えて欲しい』というわけらしい。

「ふぅん、珍しいね。赤点だなんて」

 千冬は頭が弱いほうでは無い。むしろ良いほうだ。こんな事態は初めてだと言ってもいいのではないか。

「あー、まあ。教えてくれる?」
「もちろん。私の出来る範囲でなら、ね」
「ん。じゃあ今日家に来て」
「……今日? 明日じゃ駄目ですかね」
「明日再テストがあるんで。……何か用事があったの?」
「うん。今日六時半からドラ焼きもんが始まるから」
「あ、赤点とったのは英語だから。教材はこっちで用意しとく」
「聞けよ」
「ドラ焼きもんと僕の成績、どっちが大事なの」
「全力で前者…すみません後者を選ばせてくださいお願いします頬抓らないで」
「じゃ、待ってるから」

 私の手から鞄を奪い取って颯爽と歩く彼。これは一緒に帰れって背中で語ってるんですかね。鞄を人質に取られしぶしぶ後を追う。まあ、良いか。どっちみち友達は先に帰っちゃったし。
 哀愁漂う私の影を一つ教室に残し、駆け足で彼の元へと駆け寄った。