「……ぅあ!」

 川のすぐ傍にまで歩み寄っていたせいか、濡れて滑りやすくなっていた石で足元が不安定になり、そのまま川へと身体が傾いた。当然重力に逆らえるはずもなく、スローモーションのように水が迫ってくる。

「あ、あぶなっ……」

 とっさに川の中へと手を伸ばす。服の裾が濡れてしまうかもしれないけれど、このまま頭から川に突っ込むよりかはマシだ。……が。

「ああああああああ! 私のレモン達がああああああ!」

 私が手で持っていた、魚のムニエルと同じ皿の中に入るはずのレモン達が『川に用事があるんだ!』とでも言いたげに川に向かって宙に浮かんだ。咄嗟に川の中へと伸ばしていた手に緊急命令を発令し、宙に浮かんだレモンを一つだけキャッチすることに成功。

「よっしゃ!」

 喜びの声を口にしたのもつかの間。はたと今の現状を思い出す。あれ。私、川に落ちそうになってた気が……。
 人間、危機的状況になると冷静になれるんですね。少なくとも、今の私は冷静に物事を考えていた。

「やっちまったよがばぉ!」

 そのままレモンを一つ道連れにし、川に頭から落ちたのは言うまでもない。


+ + +


「……なるほど。とりあえず、頭からつま先までびしょ濡れになっていた理由は分かった」

 本から一瞬だけ目を離し、ちらりと横目でこちらを見る亮。

「……で。その犬は何?」

 うざったそうに私の膝辺りを凝視する亮に、くうん? と小首を傾げながら亮に返事をする白い物体。

「いやあ……まあ、その簡単に言うとダンボールに入ってたのがその子なわけで……」
「で、飼えないくせに拾ってきたと」
「そうですね、はい」
「……それで?」
「あ、この子の名前はダンボ太郎です」
「そういうことを聞いてるんじゃない。……って何そのネーミングセンス。ひどすぎる」
「ダンボールから生まれてきたからダンボ太郎」
「由来を聞いてる訳じゃないんだけど」
「え、駄目? じゃあ……んぼたろ、でどう?」
「なんでダンボ太郎の真ん中から取っちゃったの。考えるにしてももう少し考えようがあったでしょ。端からとってダンとか」
「あ、良いねそれ。なんかダンディーっぽい」
「ありがとう。いや違う。そういうことじゃなくて」

 パタン、と亮が本を閉じる。どうやら真剣に話を聞いてくれる体制になったらしい。とりあえずは一歩前進だ。気付かれないように小さく息を吐いた。

「………なんで、俺の家にその犬を連れてきたんだよ」
「え、だって私の家ペット禁止だから」
「確かお前と同じマンションに住んでいたはずなんだけど」
「……それが?」
「……それが? じゃない! 俺もおまえと同じペット禁止の家に住んでるんだって言ってんだよ!」
「…………おお。そう言われればそうだったね……」
「お前レモンの食いすぎで味覚だけじゃなく頭もおかしくなったのか?」
「失礼な! 頭はともかくレモンの味に勝るものは無いって私の舌が言ってるんだから!」
「それが味覚がおかしい証拠なんだよ。……さりげなく自分の頭がおかしいってことを認めたな」
「う、うるさい!」

 がっくりと肩を落とし、未だに私の手に擦り寄ってくるダンの頭をぽんぽんと撫でる。わん、と嬉しそうに尻尾を振る姿はどうにも愛くるしい。白い毛が多くほわほわとしていて気付かなかったけれど、身体が小さく動物について詳しくない私が見てもまだ大人になっていない子犬だということが伝わってきた。

「……かわいい」
「元の場所に戻してきなさい」
「……かわいい」
「かわいいのは分かったから。戻してきなよ」
「……かわいい」
「………戻して、」
「……かわいい」
「………」
「……かわいい」
「……………」
「……かわ」
「ああもう分かったよ!」

 耐え切れなくなったかのように叫んだ亮はああああ! と自分の髪をかき回して飼ったら良いんだろ!? と奪うようにダンを抱き上げた。