なでなで


「もう少し長く、丁寧に点ててみてください。心をしっかりと込めるように」
「は、はい!」
「ああ、それともう少し背筋を伸ばすと更に綺麗な姿勢が保つことが出来ます。常に意識するよう心掛けてくださいね」
「はい!」

 縋り付くように頼み込んだ例のあの日から数日の時が流れた。文化祭まで残り二週間程。
 ……私には文化祭までに作法でも何でも、とにかく少しでも上達しておかなければならない理由があった。

 それは一言で言うのならば、廃部の危機というもので。今軽く部室を見回してみても、部員は部長である私以外一人も居る気配すら無い。副部長でさえ幽霊部員……最早透明部員と化してしまっている有様だ。
 何とか先生に頼み込んで活動させてもらっていたけど、さすがにそろそろ限界が近づいているようで。ここは一つ文化祭でたくさんお客さんを呼び込み、汚名返上とまではいかないにしても……多少見直してくれるのでは無いかという安直な考えに至ったのだ。

 どんな方法であれ、可能性があるのなら少しでも部活を継続出来る方向に導いていかなければ。折角先輩から受け継いだこの部活の存続の危機。絶対に防がなければならない。

「どうしました? 何か考え事でも」
「……ああいえ、何でもないです!」

 いけない、少し思考の渦に巻き込まれてしまっていた。先のことばかりを考えてしまっても仕方ない、とりあえず私ができる範囲内での努力……目の前のお茶を美味しく点てることだけに集中してみよう。

 指摘を受けた箇所を意識し、塗り込むように体と脳に記憶させて一つ一つの仕草を丁寧にこなしてみる。……先輩に少しでも美味しいお茶をお出ししたい。その一心である程度の段階を踏み終えた後、両の手の中に出来上がったそれの見た目は、一つ前のお茶と比べても劇的な変化は見られなかった。
 ……失敗した。肩の上下の動きと共に口から深い息を漏らすと、ふと手から茶器の堅い感覚が掠め取られてしまった。

 一体誰? なんて、そんな疑問は愚問だ。今この時この空間には私と先輩しか存在していないのだから、私の感覚を奪い去るような芸当をやってみせる人物は無論、一人以外に該当するはずが無い。
 確かに私が淹れたお茶を音も無く口にする先輩の仕草に、一々敏感に反応し、凝視する。一言一句、呼吸一つコンマ一秒でさえ見逃しはしないように。

「……良いですね。先ほどよりも美味しく感じます」
「本当ですか!? で、でもあまり……」

 改めて彼の手元を見るも、深緑色の液体が揺れるだけでやはり変化は無い。はてと首を傾げれば、彼はいつもの調子で茶器を置き口元に袖を寄せて小さく笑った。

「美味しいお茶と一言に言っても、味というのははっきりとした形を持たないものですから。一般的に受け入れられにくい渋いお茶を好きだと言う方も居れば、苦味を求めず甘さを重視する方もいらっしゃいます。……つまり、好みは人によりけりなのです。少なくとも私は、どれが間違い、どれが正しいという概念はありませんよ」

 自分の考えを柔らかく宥めるように、けれどきちんと筋を通して語るその説明になるほどと相槌を打つ。そう考えると、そういえば味についての指摘は受けたことが無かったなと一人で頷きながら、ふと小さな疑問が浮かんだ。

「……ん? だとしたら、何でそのお茶は美味しく出来上がったんだろ……」

 と、声に出したところではっと気付き両手で口を抑える。心の中で呟いたはずなのに……と、思わぬハプニングにちょっとした羞恥心を受けて顔を赤らめていると、にこにこ顔の先輩が独り言に答えてくれた。

「昔、貴方に美味しいお茶の淹れ方を問われた時の返答を覚えていますか?」
「え……っと。心がこもっているから、だとか何とか」

 はっきりと答えるのは少しおかしいかと思い直して語尾を曖昧に濁したけれど、今でもふとした拍子に脳内再生されるぐらいにはっきりと覚えている。実際、先輩が来る少し前にも思い出脳内フォルダから引っ張り出していたしね。

「そう、良く覚えていましたね。つまりはそういう意味ですよ」
「……ふむ?」

 つまりはどういうことなのだろう。疑問符が頭の中で渋滞してしまった。ううむと混雑状態を緩和しようとこめかみ辺りを指の第二関節で刺激する。考え込む時にいつの間にかついてしまった癖。多分一休さん辺りに感化されたものだと思うのだけど、まあそれはそれとして。
 くるくると円を描くように一定間隔で押すと、時間が経つにつれ着々と痛み始めてくる。当たり前か。唸りながら悩んでいると、手の上から柔らかな温もりが被さり、緊急停止命令を素早く指へ伝達させる。勢いに任せて温もりから逃げれば、そのまま標的を頭の上へと流れるように変えられてしまった。

「言葉通りの意味ですよ。私を想ってお茶を淹れてくれたのでしょう?」

 勿論です。なんて言える筈もなく、口を魚みたいにぱくぱくと開けては閉じるを繰り返していると、少しの沈黙の後先輩は目を細めた。

「……まあ、ただの自惚れだという可能性も否めませんが。とにかく、お茶をお出しする方を想い、一つ一つ丁寧に行おうという心持ちが大切なのです。お茶の濃い薄いは関係無く、一生懸命な表情や仕草……そんな些細な行動の中で、ふと自分を想ってくれていると感じ取れたとしたら、何だかとても幸せな気持ちになりませんか?」

 要するに、と続ける先輩の言葉一つ一つをしっかりと耳だけでなく脳に焼き付ける。携帯は勿論、メモ帳なんて持ち歩くほど普段から勉強熱心な方でも無いので、頼りになるメモリは自身の脳だけだ。何かの拍子でするりと抜けて行ってしまわないよう、時折心の中で繰り返し再生し聴覚を研ぎ澄ます。

「お腹が空いている時はご飯が美味しく感じられますよね。同じように、感情も優しくなればなるほど、味覚も美味しく感じるように働きかけていると私は思っています」

 これで納得して頂けましたか? と小首を傾げられ、油断したらポロリと取れてしまいそうなぐらいの勢いで頭を上下に激しく振る。安心したような先輩の表情を見て、揺さぶられ依然不安定な状態の脳が更にオーバーヒートしてしまいそうになった。

「……良く頑張りましたね」

 ご褒美ですよ、と至極楽しそうに先輩の手が私の髪の毛を整えるように撫でる。気まぐれに移動しては時折髪を軽く梳かすその体温に、私の脳は完全に機能を停止してしまったようだ。目の前が心無しか歪み始め、手の動きに合わせて頭が力無く動いてしまう。
 ……どうか気を失ってしまいませんように。


なでなで
(頭から溶けてしまいます)