心地よい沈黙


「少し外へ出てみませんか?」

 そう先輩に持ちかけられ、着物のまま部室を出たのが十分前のこと。今、私の目の前には整枝がされたお茶畑が綺麗に広がっていた。

「たまには息抜きしませんと、カビが生えてしまいますよ」

 緑独特の香りと共に先輩の声が聞こえてきて、小さく笑う。

「先輩。実は私、毎日ここを見に来ているんですよ。……最近は時間が無くて、中々訪れることがありませんでしたが」

 私にとってはお花畑よりも理想的で落ち着く場所なんです。そう独り言のように吐くと「知っていますよ」と落ち着いた声が返ってきて……え?

「何で知ってるんですか?」
「……おや、気付いていなかったのですね」

 先輩が指差した緑の奥へと目を向ければ、一軒の古びた家が寂しげに佇んでいた。今の時代見つけようとしても中々遭遇出来ないような珍しい外見で、昔話に出てきても疑問に思わない程にそれは年を刻んでいる様子。
 あの家がどうしたんですか、そう問いかけるよりも前に返事が返ってきた。

「あれ、私の家なんです」
「へえ……え。……ん!?」

 先輩の顔と家を交互に見ては、餌を求める魚みたいに口を忙しなく開けては閉じる。……今、何て。

「このお茶畑、私の祖父が管理している物なんですよ。……本当に何も?」

 口を閉めるのも忘れて呆然とした間抜け顔のままに首を縦に振ると、意図の読み取れない笑い声が隣から降ってきた。
 こんなに学校から近い場所に先輩の自宅があっただなんて。確認する時間とチャンスはいくらでも存在していたはずなのに、どうして気付かなかったのだろう。
 自分で自分を卑下していると、座りましょうかとこれまた今の時代には珍しい古びた茶店の赤い床机を指差した。少し日差しに参っていたところだ。床机に腰を落ち着かせると、和の香りが漂う赤い傘が熱い光を遮ってくれていた。

「何か頂きますか?」
「あ……っと、そうですね。みたらし団子が食べたいです」
「……お腹が空いていたのですね」

 思わずお茶類では無く食べ物を選んで口に出すと、幼い子供を見るような微笑ましい目をされて笑われてしまった。……恥ずかしい。
 しばらく談笑して待っていると、店の奥から串の通ったお団子を二人前、同じ皿に乗せたお婆さんが「お待たせ致しました」と床机の上に置いてくれた。早速一本口に運ぶと、タレが跳ねてしまったのか顎の部分を先輩のハンカチで拭い取られてしまう。
 ……何をやってるんだ、私。すみません、口を動かしながら小さく謝ると、気にしないでくださいと和やかな表情と言葉が同時に返ってきた。

「高校生活はどうです? 満喫していますか?」
「も、勿論です! 友達も皆優しくて、えっと、部活も楽しく活動させてもらっています!」

 部員は実質私一人だけなのだけど、そんな言葉を飲み込んで精一杯日常での出来事やアクシデントや何かを身振り手振りで語っていると、ふと先輩が寂しげな表情を浮かべた気がして手を止めた。

「先輩? どうしました?」
「……はい? ああ、いえ、別に大したことでは無いのですが」

 目を細め私を見つめるその姿に、主役が無くなってしまった串を一旦皿の上に置いて自身の足の上へと手を添えた。

「いえ、本当に大したことは無いんです」

 先輩はそう前置きをして私の頭を撫でた。すっかりその動作が癖になってしまったようで、その行動の度に、私の心臓はうるさく主張しては壊れてしまう一歩手前まで活動を続ける。この調子じゃいつか私は先輩に殺されてしまいそうだ。

「もし、私も貴方と同じ空間を過ごせていたとしたら、とても心地よい時間を共有出来ていたのだろうなと」

 ふとそんなことを思ってしまいました。切なげに笑う彼につられて思わず口を一文字に結び、図らずとも眉の端を下げてしまう。明らかにしょんぼり顔であろう私の表情を見て、頭に乗せてある先輩の手がほんの少しだけ震えたような気がした。

「皮肉なものです。年が一つ離れているだけで、こんなにも貴方が遠く感じてしまうとは」
「……え。あ、そそうですね!」

 不自然な程に噛んでしまった私を脳内で殴りつけ、それでも足りずに自分の手の甲を気づかれないように抓った。先輩の言葉を再度自分の中で再生し、頬がじわじわと赤く熱くなっていくような感覚。きっと他意は無いのだろうけど。それでも、どうしても意識してしまう。いや、だって。その言い方はまるで。

「そのような意味で受け取ってもらっても構いませんよ?」

 まるで愛の告白のようで。

「……え」
「……冗談です」

 あからさまに動揺した私を見て、悪戯を成功させた子供のように笑う先輩の肩を思わず叩く。勿論、力は最低限込めずに。
 すみませんと未だ口角の上がった先輩に頬を膨らませ、熱が籠ったままの頬を誤魔化すようにもう一本の団子を頬張った。
 丁度、熱を冷ますように流れてきた風が何だか心地よくて、目を細めて何となしに彼の方を見ると、私と同じように団子を頬張り目を閉じていた。その姿が精神年齢よりも幾分か幼く見えて、気付かれないようにくすりと笑った後、私も先輩に合わせて目を閉じ風の音に耳を澄ませた。
 緑が揺れ、少しだけ季節外れな風鈴の音が沈黙を申し訳程度に彩る。傘と瞼越しの日の光が暖かくて、何だか眠くなってしまいそう。

 と、足先に何か暖かい物が擦り寄ってきた。そう感じれば温もりの元が気持ち良さそうに「にゃー」と小さく呟く。きっと近くを散歩していた猫が足元で丸まっているんだろう。
 極力足を動かさないように二つ目の団子を頬張ると、とろりとした甘味が口の中に広がった。
 ……ああ、平和だなぁ。何とも言えない幸福感に包まれていると、視線を感じて目を開ける。

「幸せそうですね」

 先ほどよりうんと近く感じる距離に疑問を持つよりも早く「幸せですよ」と返して、微笑んで見せた。


心地よい沈黙
(決して苦とは感じない、不思議な空間)