こちらへおいで


 何杯目かも分からないお茶を淹れ終わり、息を一塊吐き出すと共に肩の力を抜く。……さすがに疲れてしまった。失礼しますと一言断ってから首を軽く回して立ち上がると、合わせて先輩も静かに立ち上がる。

「お疲れ様です。頑張りましたね」
「いえいえ! すみません、私の方こそ先輩に無理やり付き合わせてしまって」

 お気になさらずに。そういつもの調子で微笑んだ先輩の顔が、ふと何かに気付いたように私の着物を覗き込む。……な、何かやらかしてしまったのだろうか。
 慌てて袖や髪をちょんと指先で触って確認していると、先輩の手がお腹辺りに触れる。びくりと大げさに肩が跳ねてしまい、視線をあちらこちら漂わせているとすぐに手が離れていってしまった。

「帯、曲がっていますよ」
「え……あ、本当だ!」

 言われてみれば、確かに帯全体が傾き緩くなってしまっている。お茶を淹れるのに集中する余り、自身の服装の状態にまで気が回らなかったようで。すみませんと謝罪の言葉を口にすれば、大丈夫ですよと宥められてしまった。

「結び直してあげます。少しじっとしていてくださいね」
「あ、ありがとうございます。……じゃないですよ! だ、駄目です!」

 おもむろに帯に手をかけ解こうとする先輩があまりにも自然で。つい流されてしまいそうになり慌てて距離を取った。
 この類の悪戯はどうしても激しく戸惑ってしまう。普段茶目っ気のある悪戯でしかまともに経験していない私にとっては、割と心臓に負担が掛かるわけで。
 両手を前に突き出し身を守るようなポーズを取っていると、はてと首を傾げられそそくさと手を元の位置に戻した。……私ばかり錯乱しているようで。何だか恥ずかしい。

「……そうですか、残念です。では簪が曲がっているので直して差し上げますよ」

 動かないでくださいね、その一言と共に先輩の着物の裾が近づいてきて目を閉じる。髪を触っているだけなのだから目を閉じる必要性は無いのだけれど、それでも自身を暗闇の中へと自発的に閉じ込めた。そうでもしないと、嫌でも意識してしまう。
 すぐに離れていった感触を合図に目を開けると、縁側の方を眺めている先輩の視線に気付きゆっくりと追って庭を見た。

「大分日が落ちてしまいましたね」

 言われてみれば確かに、辺りを確認出来ない程では無いけれど、細やかな物をはっきりと認識出来ない程度に薄暗くなってしまってる。もうそんなに時間が経過してしまったのか。集中している程に時が経つのが早くなるとは良く言ったもので、今の状況にもその現象はピタリと当てはまっていた。

「……あ、本当ですね。そろそろお開きにしましょうか。では先輩、今日もありがとうございました」

 最早恒例となった台詞と共に頭を下げる。着物から制服に着替えようと奥の部屋へ続くふすまに手を掛けると「ああ、待ってください」と引き止められ振り返った。……もしかして、着物と簪の他に何かおかしなところでもあったのかな。

「……貴女はいつも、この時間帯でもお一人で帰宅なさっているのですか?」
「え? ああ、はい。友人は既に帰宅しているので……」

 少し慌てた様子の先輩に困惑しながらも、与えられた疑問符に精一杯の敬語を乗せて答える。
 最近、部活が大変そうだと友達が気を回してくれているようで、私を焦らせないようにと一言断ってから先に帰ってくれている。おかげで時間を気にせずにお茶を淹れることが出来て、密かに感謝しているのだ。

「……送りますよ。こんな夜中に女性一人で出歩くだなんて、無用心にも程があります」
「……え」

 一瞬、自分の耳を疑った。いやだって、女性では無く私は高校生であって、まだ子供……というよりも、一応未成年ですし。違う、そんなこと今は関係無くて。

「だ、大丈夫ですよ! 夜中と言ってもまだ七時前ですし……」

 夜中の定義は人それぞれだとは思うけれど、少なくとも私の中では夜中と断定するにはまだ速い時間帯。平気ですと会話を終わらせるべくふすまを閉め、荷物の近くで早々に帰り支度を始めた。
 落ち着いた雰囲気の着物もほっとして好きだけれど、やはり現代っ子としては着慣れた制服の方が幾分か動きやすい。布が垂れず無駄の無い袖に腕を通すと、ぴったりと着物とは違う肌への密着に肩の力を抜いた。何というか、お風呂上がりに窓から風を受け止めるような感覚。気が抜けるというか、安心するというか。
 言いようのない感情に包まれながらふすまを開けると、先輩の姿はどこにも見当たらなかった。どうやら先に帰ってしまったらしい。……少しだけ、ほんのちょっとだけ残念に思う自分に心底嫌気が差した。私なんかが先輩の時間をこれ以上無駄に奪ってはいけない、そう自分に念じつつ部室を出る。

 部活の強制終了時刻よりも少しだけ早めに終わってしまったせいか、辺りに人影は見当たらない。所々明かりの灯った扉の前を通り過ぎ、微かに聞こえてくる掛け声や笑い声にそっと混ざる上履きの音がやけに大きく響き渡った。
 上履きと床が擦れる音と共に廊下を渡り、昇降口で上履きからローファーへと履き替えると、校門の辺りで見慣れた人影が見えた。……気がした。
 嫌な予感がする。そう変に勘づいてしまい、踵を踏んだまま焦って走り確認すると、やはり。

「お疲れ様です」

 私服でも変わらずに和服を纏った先輩がそこに立っていた。街灯に照らし出される黒髪とその格好がミスマッチのようで、酷く合っていて。先輩なら例えどんな場面でも溶け込んでしまうんだろうな、と脈絡も無くそう感じてしまった。

「……待っていて下さったんですか?」
「ええ、勿論。……迷惑でしたか?」

 そんな訳無いじゃないですか! そう叫びたい衝動を抑えて静かに首を左右へと振ると、不意に手を握られびくりと体が震える。

「安心しました。……では、参りましょうか」

 私が指示するよりも先に帰路を辿っていく先輩の背中に、理由は分からないのだけれど少しだけ。ほんの少しだけ泣きたくなった。


こちらへおいで
(その言葉に、その仕草に、淡く胸が高鳴りました)